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ブータンの王政

次にブータンの王政のことを少しお話しします。ブータンの王政の歴史は浅く、来年で百年になります。一九〇七年に当時のブータンの指導者層が集まって、意図して世襲の国王制を国家の政治制度として選択したという史実があります。

その背景は二つあります。一つは十七世紀、日本の江戸初期頃から、一九〇七年(明治四十年)まで、ブータンは一つの国としてまとまってはいましたが、いわば戦国時代のような時期でした。その理由は、チベットと同じように宗教政治で活仏が国を治めていましたから、お世継ぎ騒動などで、政治的に非常に不安定な状態が続いたこと。それからもう一つの背景は、十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかける世界のジオポリティックス。大英帝国とロシア帝国が地球の面積を取り合う「大ゲーム」を盛んに行っていた頃で、ブータンはその真っ只中にいたわけです。

大英帝国の支配がインドの南から北のほうにだんだんと競り上がってきた時代で、ブータンも一度、イギリスと戦争をしています。北方では、ロシア帝国がシベリアとチベットのほうに進出してきている状況でした。すでに、中国がチベットにいろいろな形で政治介入を始めた時代でもあります。そういうジオポリティックスを見極めて、ブータンが独立国として生き残るためにはどういう政治形態をとったらいいのかという指導者会議があって、世襲王政を選んだわけです。

一応選挙の形をとって国王第一世を選んだわけですが、戦国時代的な背景から頭角を現した豪族の一人、ワンチュク家の当主が、国王第一世に選ばれたわけです。第一世に関しては、歴史文書にもあまり残っていないのですが、私が勉強した限りでは、徳川家康にそっくりな人だったと感じます。

そういう背景から王制ができました。それ以来のブータンの政治の歴史は、絶対王政からゆっくり時間をかけて民主主義へと変わっていきました。その学習の道が百年間と考えるのが最適だと思います。

民主主義への変化は、三代目である、現国王の父君の時代に加速化しました。第三世はまず国会を設置しました。政党制総選挙をベースにした議員の集まりではなかったのですが、まず立法機関を立ち上げたのです。それから、世界史に類を見ない農地改革を実施しました。国王が先導して、反対をされながらも断行したのです。同時に農奴解放も完全にやってのけました。さらに、農民に過酷なほど重かった税制も改革しました。その驚くべき指導者が三世だったわけです。

そういうような、歴史的に見て世にも不思議なことが起きたのが、第三世の時代でした。現国王(公式には雷龍王四世)が、その父君の遺志を引き継いで民主主義への学習の道をひたすら歩み、今や完成の時に至っているのが一九〇七年以来のブータンの政治史です。

協力:社団法人 学士会
本稿は平成18年10月10日夕食会(学士会が会員向けに毎月開催している)における講演の要旨です。

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